流れに身を任せ、咲かせたちょんまげ人生の花「野原のぼさん」

人図鑑

ちょんまげ稼業
野原のぼ さん

活動内容
イベント等の企画・演出・出演
主に、忍城おもてなし甲冑隊「成田長親」・テレビ埼玉・行田ケーブルテレビ・FMクマガヤ等で活躍中

プロフィール
1976年4月1日、愛知県名古屋市で生まれる。幼稚園の頃から小学1年まで埼玉県浦和市で暮らす。その後、名古屋に戻り専門学校卒業後、三重県の伊勢戦国時代村(日光江戸村系列)に就職。時代劇やイベントについて学ぶ。毎日舞台に立つ傍ら、ボクシングのプロテストに合格。日光江戸村を退職後、俳優業やスポーツジムでボクシングレッスンを受け持つ。30歳からの3年間程、コメディアン小松政夫の付き人をする。2011年行田市観光PR隊「忍城おもてなし甲冑隊 成田長親」に就任。行田市を中心に活躍の場を広げ、現在に至る。

——ご出身は名古屋なんですね?

はい、名古屋で生まれました。成田長親の菩提寺は名古屋なんです。名古屋の大須っていう所にあるんですけど、僕が生まれた病院が大須なんですよ。それには、ちょっと不思議な縁を感じますね。

——もともと舞台などで活躍したいという想いはあったのですか?

それがないんですよ。就職するとなった時に、実家を出て仕事をしようと探していて、たまたま三重県の伊勢戦国時代村というテーマパークを見つけ、そこが寮完備でちょっと楽しそうだなっていうことで行ってみたのがきっかけです。僕自身は決して舞台に立ちたいとか、そういう願望があったわけではないんですが、そこは役者を目指しているギラギラした人がいっぱい来るところだったので、やばいとこ来ちゃったなと思いましたけどね(笑)。そこで、結果的に時代劇やイベントのことを多く学びました。

——やってみたら面白かったですか?

今までにない感覚があったっていうか。働いてすぐの頃に、お客さんから一緒に撮った家族写真が送られてきたんです。ありがとう、すごく楽しかったですって写真が送られてきて、なんだこの仕事!!と思いました。こんな知らない人から写真が届いて、この人の思い出に入れるんだっていうのにすごく衝撃を受けて。この仕事って素敵だなって思ったのがずっと続けていられる理由ですかね。

——トーク術はどこで覚えられたのですか?

伊勢戦国時代村に萩本欽一さんの劇場があったんですよ。欽ちゃん作・演出の劇場でそこに出させていただくようになり、やり取りとかそこで学んだ面は大きいですね。今の僕の演出などにも活きていると思います。当時、欽ちゃんっぽいとか言われたりしてましたけどね。

——素晴らしい!凄い縁ですね!

本当、流れに身を任せて…。役者への強いこだわりがなかったから、自然にトークなんかも吸収できたんでしょうね。まわりの人たちは、俳優になりたいってギラギラしてたから、音響とかチケットもぎりとか、裏方の仕事はやりたくないっていうのもあったみたいですけど、僕は全然そういうのもなくて、言われたことをちゃんとやるっていうのだけでした。そのおかげもあって色んな現場にも行けたし、始めた当時にそういう姿勢でいられたのは、運が良かったかな。

——プロボクサーにはどこで?

ボクシングは高校時代からやっていました。父親がボクシングのアマチュアで全国準優勝していて、高校生当時、親父への対抗意識からボクシングを始めたんですが、やってみたら全国なんかとても行けるレベルじゃなくて。怪我もして一度は辞めていたんですけど、日光江戸村にいた25歳の頃、たまたま近くにボクシングジムがあって、行ってみたら思いのほか動けたんですよね。もしかしたらまだやれるかなと、再開しました。再開した後も、僕はアマチュアにこだわっていて、アマチュアの大会に出ようとしていたんです。でも、もう江戸村で毎日舞台に立っていたので、毎週あるトーナメントの試合毎に仕事を休むわけにもいかず…。プロボクサーになってしまえば、江戸村も仕事を休ませてくれるかなと、プロテストを受けて合格しました。最後にプロとして1試合だけ試合をして、もうボクシングはけじめをつけようと。親父には適わないって分かっていたんですけど、それを受け入れる作業だったんだと思います。

——試合はどうだったのですか?

負けました。でも勝ち負け関係なく、それで終わりにすることはジムの会長に伝えていたので、けじめがついたっていうことで、ボクシングも辞めて、江戸村も辞めました。1回全部フラットにしようと思って、全くの無職に。しばらくして、この先どうしようかなと思った時に、僕は人前に立ってパフォーマンスするっていう仕事と、ボクシングしかやってこなかったなと。それで、多くはないけれど時代劇の立ち回りの仕事をやったり、今度はボクシングを教えることを始めて、少しずつ仕事していったという感じです。

——芸能人の付き人をされていた事もあったそうで?

そうなんです。小松政夫っていうコメディアンの付き人をしていたこともあります。当時、吉幾三さんの公演に出演する小松政夫さんの付き人を探していたそうで、江戸村での経験から、着物もたためるし、時代劇の素養もあるというところで、間接的に声をかけられたんです。まず小松の親父さんのとこに挨拶に伺って、じゃあお願いしますっていうことになって。本当はその1ヶ月の公演だけだったんですけど、ちょうど親父さんに付き人がいない時期だったんで、引き続きどうだと言われ、結局3年程ですかね…色んな経験をさせてもらいました。

——それはまた凄い経験ですね!ところで、のぼさんご結婚されているんですよね?

30歳の時に結婚しました。当時は、まだ安定した仕事をしていなくて、ほぼニートみたいでしたね。僕、ジャージで結婚の挨拶に行ったんですよ。時代劇をしてボクシングを教えていて、スーツを着るような仕事ではなかったし、僕の正装ってスーツ着てたら嘘だなと思って、ジャージで行ったんです。僕の中ではちょっといいジャージでね(笑)。でもお義父さん1回も目を合わしてくれませんでした。出直してこいっていうことになって、結局スーツ着て行きましたけど。

——奥様はプロの詩吟家さんなのですか?

詩吟(しぎん)吟詠(ぎんえい)・舞踊アーティストていう肩書きでやっています。詩吟の家で育って、小さい頃からずっとやっていて、10代の頃にレコード会社のプロデューサーから詩吟以外の歌もやってみないかと誘われて、演歌をやっていた時期があります。その演歌歌手の時代に時代劇の舞台で共演したのが、出会ったきっかけです。今はもう演歌は離れて、詩吟が高齢化も進みどんどん廃れていきそうな芸能になりつつあるので、なんとか残さなきゃということで、詩吟の業界に戻って、「(けい)(せい)」という名前で色々活動しています。

——のぼさんが、忍城おもてなし甲冑隊に入ったのはどんなきっかけが?

江戸村で培ったものが俳優なのかなと思っても、俳優みたいな仕事ってそんなに多くあるものでもなくて。それでも時々俳優の仕事をやっていた時期に、妻から「俳優っていうよりも、あなたはイベントなんじゃない?」って言われたんですよ。確かにそうだなと俳優的な役者業は1回全部リセットしようと思っていた時に、妻が行田市観光PR隊の仕事の話を見つけて来てくれました。演出もするということで始めたのが2011年です。妻のおかげですね。

——成田長親(のぼうさん)でいる中で、心がけていることってありますか?

甲冑隊の成田長親なのか、僕自身もそっちに近づいているのか、誰に対してもフラットに接せられているかなと思いますけどね。

——甲冑隊と個人で動くときの違いはありますか?

そうですね、メンバーがいるいないに関わらず、甲冑隊となるとやっぱり行田市を背負っている面があるので、おかしなことやってるとは思いますけど、あんまりおかしなことはできないなとは思っています。

——メンバーに対しての想いや付き合いかたは?

各々、色んな目的で甲冑隊のプロジェクトに携わっているので、観光PR隊としてうまく結果につながるようなものを作れればなっていう意識はありますかね。だんだん年数も重ねて経験をしているメンバーに関しては、ひとつのイベントを任せて僕は違うイベントに行ったり、僕がいるときでも任せたりということはあります。

——のぼさんご自身と長親になった時の区分けってあるんですか?

だんだん近くなってきて…。公私一体とまでは難しいけど、ちょっと意識した時期はあります。それで、「野原のぼ」に変えたのもありますし。でも、ちょんまげを付けている時と付けてない時とで別に成立させていたい想いはあります。完全に架空にしちゃうと、僕の仕事って何なんだろうと思ってしまうので、これは正々堂々とやりたいなって。それに僕、行田の人間じゃないじゃないですか。成田長親としている時は言わないですけど、そうじゃない時はそれも隠したくないというか。それでも成立させられるような人間でありたいなと思ってやっています。

——活動していて思い出に残っていることは?

私が長親になってから13年ですけど、やっぱり小さかった子たちの成長は感慨深いですよね。当時赤ちゃんで、僕を見て大泣きしていた子が大きくなって、今は普通に話してくれて、向こうから挨拶してきてくれたりとか、もうすごく嬉しいですよ。近所の侍みたいな感じでみんな受け入れてくれているのは嬉しいなって思います。

——衣装などのこだわりってありますか?

ちょんまげは自分のものなんです。ちなみにカツラは2面持ってるんですけど、長親としてのちょんまげはもう20年以上の付き合いになりますね。カツラをあんなしょっちゅう屋外で使っている人はなかなかいないと思うんですけど、髪が日に焼けちゃうんですね。どうしても髪が茶色くなっちゃうから何回か黒く染めています。職人さんにお願いして結い直しも年に1回してるんですよ。江戸村にいる23歳くらいの時に自分の頭に合わせて作ってもらったものなんです。それは滅多にないことで、色んな俳優さんが使っている中で、合うものを被るのが多いんですけど、新しい演目を作るときに自分専用のカツラを作ってもらえて、すごく嬉しかったのを覚えてます。それの結いを役によって変えながらずっと使い続けて、僕の大切な相棒みたいです。

——のぼさんが感じる行田ってどんな街ですか?

風土というか、気負わない優しさっていうかを人にも地域にも感じますね。おそらく観光で来られたかたも、そう感じるかたは多いんじゃないかなと思います。僕には単純に合っているのかなって、だから長くやっていられるっていうのもあるんでしょうね。

——行田ケーブルテレビでは「わらしべ長者」的な番組をやっていますよね?

あの番組は、楽しいというか怖いですけどね。本当にアポなしでやっているから、もちろん敬遠されることもありますし。でも、さっきの行田の印象じゃないですけど、あったかくて優しい街だから受け入れてもらっているってところはあるかな。

——FMクマガヤでのパーソナリティーはどのくらいになりますか?

FMクマガヤはスタートから関わっているので、5年が経ちましたね。それまでに単発でゲスト出演とかはありましたけど。ラジオ番組を持つのは初めてでした。知らない世界で新しいことをやれると思って今も続けています。今まで、ちょんまげに頼ってきたじゃないですか。言葉だけになるとそれはもう関係ないので、それで新しいものをまた得られたらなっていう挑戦してるところでもあります。でも、人のお話を聞くのは好きですね。

——お仕事ではトークの場面が多いと思いますが、意識していることはありますか?

実は僕、普段あんまり喋らないんです。だから正直得意じゃないですけど。特に大きい笑いを取ろうとかは思っていません。相手が嫌なことはしたくないってことぐらいですかね。僕は前説が好きなんですけど、前説で笑いを取るより、どうやったら気持ちよく本編を迎えられるかが1番大切だと思ってるんで、笑いの数よりも、気持ちよく次の段階に持っていけるかっていうことは意識してます。「のぼう」というキャラクターだからかもしれないけど、「すっごいおかしくて、ひょうきんなことやってますよね。」って言われたり思われがちなんですけど、実際はそうでもないです。

——発声練習などはしますか?

それは、多少慣らす程度に本番前はやりますかね。ちゃんとしたやつではないですけど、舞台に出て、何回も声潰してとかいうことを繰り返してきているので、ここはこうしとかなきゃいけないっていう自分なりのルーティーンはありますね。

——お休みの日はどんな風に過ごしていますか?

お休みが少ない時は、なるべく子供と一緒に過ごせればと思ってどこかに連れて行ったりしていましたね。あとは面白そうな舞台やイベントは、知り合いが出ている出ていないに関わらず観に行ったりしますよ。

——今後の展望を教えてください!

行田市観光PR隊としては、今までの編成を変えるべき時期がきておりまして、より地域密着というか、地元の子供たちでも挑戦できるプロジェクトに変えていければなと思っています。近々ですと、12月14・15日に「忍伝説」という市民参加型歴史活劇をやります。忍城にいても市内のかたが来てくれるってあまりないんですよね。でも外から来た人間にとっては、忍城の歴史って凄いし、誇れるものだと思うので、それを直に感じてもらえる機会になって、発信していこうっていう想いに繋げてもらえたら嬉しいですね。今回は、中学生以上からも出演者を募りました。刀を持つシーンもあるんですけど、そうやって興味を持って入ってきてくださったかた達が後々の行田市観光PR隊になっていってくれたらいいなという想いも込めて取り組んでいる企画でもあります。 あっ、学校の職業体験で忍城おもてなし甲冑隊とかも入れてほしいですね。

——興味をもった子達が学べる演出スクールみたいなのもできそうですよね?

うん、それ!寺子屋したいです!寺子屋を牧偵舎でやったりはしてはいたんですよね。今まで、ちゃんばらエクササイズとか、歴史授業とかやったこともあるんですけど、そういうのを常設でやれたらいいなと思います!

野原 のぼ
●忍城おもてなし甲冑隊 出陣
●テレビ行田 111チャンネルぎょうだ
「のぼーが行く!~電波に頼るな~」
●FMクマガヤ 87.6MHz
「備えあれば嬉しいな」「何度でも初回」
https://www.instagram.com/chommageya

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